八高線 竹沢 1988年
ただふらりと立ち寄っただけの駅にはそれが当たり前に駅員が座っていて、
眠るような陽気に誘われた人々が、間もなく到着する列車に三々五々集まって来るのだった。
時計を睨んだ当直駅長の手が挙がって、しばし大きくなったディーゼルの響きもまた小さく遠ざかる。
誰も居なくなったベンチで、駅の時間をもう少しだけ。

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鹿島鉄道 桃浦 1981年
「戦功誉れ高いテセウスの船は全体に及ぶ老朽部品を全て交換し蘇った。 しかしここでひとつの疑問が生じる。 これは果たしてテセウスの船なのか?」
先日までやっていたTBS日曜劇場の 「テセウスの船」 は結構楽しませてもらったが、
アリストテレスまで眉間に皴を寄せて論じたらしい古典的パラドックスとストーリーをうまく絡ませたなー、と感心しきり。
写真は霞ケ浦のほとりを行く「キハ715」。 元夕張鉄道の「キハ254」 である。
前面こそありがちな湘南顔だが、側面にずらりと並んだ小窓はキハ05辺りの影響があるのか異彩を放っていた。
竣工は1956年というから液体式気動車の嚆矢で、しかも国鉄でさえ躊躇した「厳寒期の北海道に液体式」を敢行した歴史的車両でもある。
当時の炭鉱鉄道の財力と先進性を窺わせるが、閉山廃線の波に飲まれ1976年に関東鉄道(後の鹿島鉄道)に譲渡される。
茨城交通然り、炭鉱鉄道からの流れ者は皆茨城県に集結したのである。
暫くはそのまま走っていたようだが、炭鉱全盛期の旅客輸送を一手に引き受けた車両は酷使に疲弊していたのだろう、
関東鉄道は1978年に全面補修に着手する。
それも半端なものではなく、外板全体の張り替えと乗務員扉の新設等々、元のままは屋根と下回りだけという徹底ぶりだ。
車両の骨格という制約はあったのかもしれないが、どうせ張り替えなら全面的にデザイン変更も出来たはずなのに、
何とも律儀な事に関東鉄道はほぼ元のキハ254そのままに復元した。 特徴的な側面小窓もそのままだ。
もうお分かりだろう。 「ここでひとつの疑問が生じる。 これは夕張鉄道キハ254なのか?」 。
台車はキハ07と同じ古めかしい菱形台車なのだが、まさか戦前の気動車のそれと交換したという事はあるまいからオリジナルだ。
機関は定期的な部品交換はあったのだろうが矍鑠としたもの、台枠にははっきり「夕張鉄道」の刻印があったという証言もある。
さてこの「テセウスの気動車」パラドックスをあなたはどう解くや。
どう解くにせよパラドックスを成立させたのは、20年使い古された車両を大手術で蘇らせた当時の関東鉄道の泥臭い「ぽっぽや」ぶりだろう。
さすがは東の気動車王国とも讃えられようが、昔の鉄道は皆、補修に補修を重ねて老いた車両を見捨てなかった。
昔の鉄道の味わいとは、無数の人の手の折り重なりが鉄の肌に沁み込んだ、その温もりなのだ。
「テセウスの気動車」はその後15年間にわたり霞ケ浦のほとりを走り続け、その役目を終えた。
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茨城交通 湊線 阿字ヶ浦 1979年
旅心溢れる緻密な鉄道旅行記を次々発表されているhmdさん
hmdの鐵たびブログ ローカル線の旅 がひたちなか海浜鉄道に乗り込まれたの受けて、コラボ企画。
1979年盛夏。 風太郎写真事始めの頃の一枚。
阿字ヶ浦駅入り口の踏切上から撮ったと思われるが、構図もへったくれも無く何ともヘタレな写真ではある。
しかし写っているものを子細に観察すればこれはなかなかだ。
左は留萌鉄道から来た「ヘソ気動車」キハ1000形、その隣のキハ58は上野から乗り入れていた「海水浴急行あじがうら」に違いない。
「ヘソ気動車」 は文字通りヘソのような野暮ったい前照灯が何とも魅力だが、
留萌時代は台車の動きと連動して照射方向を変えるというギミックまで備えていた。
羽幌炭鉱鉄道色をそのままパクッたマルーンに白髭と共に何となく愛嬌があって、今なら変な 「猫電車」 にされてしまうところだったろう。
当時は今以上に車両そのものに興味が無い徹底した叙情派だったから、この貴重な車両も軽くスルー、
何の記録も残していないが、後に液体式気動車では一番好きな車両になるというのも間の悪い話で。
悔しいから模型で・・・というのはまた別のお話。
国鉄から乗り入れの 「あじがうら」 は上野を7時過ぎに出て10時位に現地着、
有数の海水浴場だった阿字ヶ浦海岸へのお客を見送った後、夕方に帰ってくるまでのんびり昼寝を決め込んでいた。
しかしいかに「海水浴」が当時の夏のレジャーの王道だったとはいえ、国鉄はなぜ臨時列車まで投入したのだろう。
阿字ヶ浦海岸に何と「国鉄直営 海の家」があったという、うがった見方もあるが。
こじんまりとした駅舎前の広場には「氷」の暖簾も揺れるお店。
きっと浮き輪とかビーチボールとか水中メガネとかも満艦飾で売っていたに違いない。 青い麦わら帽子の少年も見える。
この時は3泊4日初めての一人旅の最終日で、前夜は郡山駅ホームの待合室でうとうと、
水郡線始発の行商軍団に取り囲まれながらここまで辿り着いた。
確か那珂湊辺りからここまで炎天下を歩き通したのではないか。
疲労と暑さで朦朧となり、今でいう熱中症に近かったのは下手な写真の言い訳にもならないが。
なにはともあれ風太郎17歳、めくるめくような昭和の夏である。
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鹿島鉄道 桃浦 1981年
夜明けの冷え込みは本格的な冬の到来を告げる。
昇る朝日と共に霞ヶ浦の水面からは濃い靄が湧き立つのだった。
白い朝。
4種踏切ばかりだから警報音は無い。
小柄な単行気動車のタイフォンだけが、しじまに響いて消える。
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筑波鉄道 常陸小田 1982年
気の利いた撮影ガイドなど無く、写材は自分の足で探すしかなかったから、線路沿いの小径をあてどなく辿るのだった。
いや余計なものが無かったからこそ、自分だけのローカル線を見て感じ得たのかもしれない。
関東平野はただ冗長に広くて、レイルは淡々と変わり映えの無い景色の中に伸びていた。
常陸小田
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