蒲原鉄道 七谷 1982年
真夏の駅の光と影は、いまだ瞼の奥に揺らいでいるように思うのだ。
HPはこちら
「風太郎の1980年田舎列車の旅」Copyright © 2014 風太郎のPな日々 All rights reserved
「ブログ村」に参加しました。ご訪問の際はポチしていただけると励みになります!
↓
にほんブログ村
蒲原鉄道 大蒲原 1983年
木々の根が開き始めれば長い冬もようやく終わりを迎える。
暗い土蔵のように閉ざされていた待合室にも、浅い春の薄日が零れるのだった。
HPはこちら
「風太郎の1980年田舎列車の旅」Copyright © 2019 風太郎のPな日々 All rights reserved
「ブログ村」に参加しました。ご訪問の際はポチしていただけると励みになります!
↓
にほんブログ村
いっそモビルスーツに

あああああ・・・。 ゴールデンウィークが例年の如くのアイアンウィークに。
もうモビルスーツを代打に出すか。
て、この限定プラモデルを夜行高速バスで早朝名古屋入りし、行列して買ったそうです。
ガンダム世代では無い風太郎は全く理解不能なのですが、有難いものなのでしょうか。
蒲原鉄道 駒岡 1982年
3月も真近となれば、豪雪の里にも冬の終わりの兆しがやって来る。
雪解けの水音が最初に春を告げるように思えて。
HPはこちら
「風太郎の1980年田舎列車の旅」Copyright © 2014 風太郎のPな日々 All rights reserved
「ブログ村」に参加しました。ご訪問の際はポチしていただけると励みになります!
↓
にほんブログ村
蒲原鉄道 大蒲原 1983年
蒲原鉄道の時刻表・運賃表はほとんどの駅でご覧の通り毛筆の手書きだった。
大判の半紙に墨黒々とした筆遣いはなかなかの達筆であるし、何より数字を漢字縦書きというのは今時映画のセット位でしか見ないだろう。
これを10駅分以上書いたのだからダイヤ改正毎の大仕事だったに違いない。
プロの筆耕屋さんに外注したという見立てもあろうが、多分鉄道員の手仕事だと思う。
何故ならこれには一部間違いがあるからだ。
「冬鳥越」駅は「土倉」と「七谷」の間にあるはずなのに「西村松」と「寺田」の間に書かれている。
うっかり何かの書き損じがあったのだろう。さてどうしたものか。
まさかこれ全部書き直せとか言わないよね、そうだ冬鳥越の運賃も150円だし、別にいいじゃん、ツッコミ入れる意地悪もいないだろうし。
というやり取りがあったか知らないが、「寺田」と共に上から紙を張り付けた形跡がある。
プロの納品物ならさすがにそういう訳にもいかなかったろう。
達筆自慢の鉄道員が毎回筆を走らせていたのだろうし、その人しかいないのだから周囲も何も言えず、という情景が目に浮かぶ。
しみじみ眺めれば1時間に1本の列車があった事が分かる。 上下併せれば30分に1本だ。
その運転密度こそ酔狂な写真撮りを喜ばす以前に、最後まで地元の生活の一部として機能していた証だろう。
ちなみにこれは上越新幹線の開通に伴う国鉄のダイヤ改正に合わせた時刻表だ。
加茂~村松間、全線の大部分はこの2年後、昭和60年の春に廃止になる。
昭和59年2月に再び国鉄の改正があって、それに合わせた書き直しがもう一度だけあったはず。
それがこの温もりある手書き時刻表の最後の一筆になった。
HPはこちら
「風太郎の1980年田舎列車の旅」Copyright © 2018 風太郎のPな日々 All rights reserved
「ブログ村」に参加しました。ご訪問の際はポチしていただけると励みになります!
↓
にほんブログ村
蒲原鉄道 大蒲原 1984年
空を覆う雲は雪の使者に違いなかった。
沈黙の季節はもう間もなく。
( という事で、この冬初めての雪でも拝みに行ってまいります。 )
HPはこちら
「風太郎の1980年田舎列車の旅」Copyright © 2014 風太郎のPな日々 All rights reserved
「ブログ村」に参加しました。ご訪問の際はポチしていただけると励みになります!
↓
にほんブログ村