価値あるもの

蒲原鉄道 大蒲原駅 吹雪とED1 3 1983年2月 16bitAdobeRGB原版 take1b2

   蒲原鉄道 大蒲原    1983年







黎明期の古典電気機関車に造詣がある方なら、昨今の東芝経営危機のニュースには複雑な想いもあるのではないか。

米企業 「ウエスティングハウス」である。


かつて電気機関車をはじめ産業の世界に電気動力という革新的な技術を持ち込んだウエスティングハウス (以下WH)の歴史は、

それまでの産業動力の主流であった蒸気機関に代わるものをもたらしたし、それは第二の産業革命を担っていたとも言えよう。

時は流れ、原発という現代の巨大インフラをも手掛けるメーカーになっていた事は今回の一件で初めて知った。


日本の鉄道におけるWHといえば、大正末期から昭和初期にかけて輸入された独特な凸型形状の小型電気機関車のイメージが強い。

上の写真がそれであると言いたいところだが、この蒲原鉄道ED1は1930年日本車両製の歴とした純国産機関車である。

しかしその形状と言えば正真正銘のWH製で今も現役の弘南鉄道ED22に細部まで酷似している。

WHのパクリかと言われる由縁だが今も昔も知的財産権にはうるさいお国柄であろうし、そのあたりの事情はよく分からない。

いずれにしても真似を通じてその構造を一から学んだのだろうと思う。国産電気機関車の師でもあった訳だ。

思えば東芝も名だたる電気機関車メーカーである。

その礎を学んだ会社を逆に傘下に入れるとは弱肉強食の資本の論理でしかないが、結果的に一蓮托生の破綻を被る事になるとは皮肉という他ない。


げに恐ろしいのは「企業価値」という見えざるものである。価値とはその製品の手触りと重さで確かめられるものばかりではないらしく。

人が財産、信用が財産という無形の価値を重んじる企業理念は昔からあった。

しかしそれらも全て株価という市場の評価に内包され、ひいては企業価値として絶対数値化されるのだという。

絶対価値を定める市場という奴は、それ程に神の如く万能で明察なものなのだろうか。


今も昔も限定少量生産の鉄道車両は、試作機だの発注流れだのいわくつきの品が時折出る事があり、

経営の苦しい田舎の鉄道が飛びついて安く買い叩くというのも往々にあったらしい。

このED1も試作機をちゃっかりお得にゲットしたという事情だったのだろうか。

しかし全身を武骨なリベットで固めた「製品」はこの雪深い越後の地を70年にわたって走り続け、除雪に貨物輸送に奮闘してその終焉まで経営を支えた。


価値とはそういうものではないか。




今は文化財としてこの地に眠る。

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[ 2017/05/18 21:42 ] 昔の旅 蒲原鉄道 | TB(0) | CM(2)

下校時間

蒲原 高松の下車客1 1985年2月 AdobeRGB 16bit 原版 take1b

   蒲原鉄道  高松    1985年







夏の写真展ではいろいろな人にお会いすることが出来たが、蒲原沿線の小学校事情を教えてもらえるとは思わなかった。

自分も撮ってましたというその方曰く、沿線中央部には小学校が2校あった。ひとつは寺田、ひとつは七谷。

寺田-大蒲原-高松-土倉-冬鳥越-七谷と続く沿線のうち、村松町と加茂市の境があった高松と土倉の間に学区の境界線もあったという。

当時そんな事は意識する事も無く初耳だったが、写真を見返せばなるほどそんな電車通学の流れになっていたと膝を打つところだ。

大蒲原駅では通学の小学生は見かけなかったが、これはひと駅位歩けと言う事だったのだろう。

夕刻、寺田方面からの電車は多分高松集落の子供達を乗せて。

まだ此処から20分は雪道を歩く道のりだ。


村松加茂線最後の冬である。

雪が解けて子供達の学年がひとつ進む頃、ここに線路は無い。







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[ 2016/12/27 20:02 ] 昔の旅 蒲原鉄道 | TB(0) | CM(4)

温もりひとつ

蒲原鉄道 大蒲原駅ホーム11 1982年 月 日 16bitAdobeRGB原版take1b2

   蒲原鉄道  大蒲原    1982年








動力電源と付帯設備用の電源が共用されていた蒲原鉄道は、

送電時間中は常に構内照明が点灯していたように記憶している。

昼行燈の如く明るい時は目立たない白熱電球も、夕闇が迫るにつれその存在を主張するのだった。

黄色い光が、冷え冷えとした雪原に一点の温もりを灯す。








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[ 2016/11/30 21:38 ] 昔の旅 蒲原鉄道 | TB(0) | CM(4)

迎える

蒲原鉄道 七谷駅のホーム1 1982年9月 X970 AdobeRGB 16bit 原版 take1b

   蒲原鉄道  七谷   1982年








朝も夜も一人きりの駅長は、そのたびに律儀に白い手袋をはめて列車を迎えた。











( 写真展漫遊録 )


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東京都写真美術館に「杉本博司 ロスト・ヒューマン」を見に行く。

「海景」シリーズが代表作ながら、写真家の範疇に留まらぬその多才ぶりが妬ましい程の「世界の杉本」である。

写真展を見に来たはずがいきなりガツンと食らうのは、「世界の終末」をイメージした何とも重いインスタレーション群。


「蜂蜜を搾取される事にとうとう気付いた蜜蜂が生きる事を止めた世界」

「自由とは自由の不可能性に支えられて理想になり得ると悟った自由主義者」

「人ゲノム遺伝子情報が解読し尽くされ、一生のスケジュールが確実に予測できる未来」

「草食男子に覆い尽くされて子供が生まれなくなった世界」


その数33点。


古美術品の収集家とも聞いていたが、錆びついた琺瑯看板やら破れかけたポスター、旧日本海軍潜水艦の自爆装置、

果てはダッチワイフまで持ち込んだ作品群に沈黙させられた後は、スクリーンと映写機を持ち込み、映画一本分の長時間露光で捉えた劇場の廃墟。

無数の物語が累積された光は何を映すか。


最後は「仏の海」と題された自然光撮影による三十三間堂の仏像群。仏は末法思想に抗し衆生を救うため祈り続ける。

千年の昔から現代まで尽きる事の無い「世界の終末」のイマジネーション。


人類と文明が遺物になる前に、アートは何を伝え得るか。少なくとも写真とは写真の為にあるのではないと聞いた気がする。

入場料千円を高いとみるか安いとみるか。それは、あなた次第です。






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[ 2016/10/29 22:11 ] 昔の旅 蒲原鉄道 | TB(0) | CM(4)

虚ろな夏   30年目の蒲原鉄道     その10

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   蒲原鉄道 七谷駅跡    2015年  







往時の面影を最も濃く残すのは、この七谷駅跡だろう。

駅舎は地元の集会所として今も活用され、コンクリートのホームもはっきり形を残している。その奥の二棟並んだ農業倉庫もそのままだ。

ホームの周囲の草叢がきれいに刈られているのは、これを記憶を継ぐものとしたいという、誰かの意思だろうか。


在りし頃。

駅の周辺こそ人家は疎らだが、列車の時間が近づけばどこからか集まる人々で小さな駅舎は結構一杯になるのだった。

それは此処が上下交換駅で、二列車分の乗降客を相手にしていた事とも無関係ではないだろう。

運転上の要衝でもあるから独りの駅長が常駐し、朝に夕べに列車を迎え、送り出していた。







七谷夏のホーム1 1981年8月31日 Adobe16bit 原版take1b

  蒲原鉄道 七谷     1981年
  
蒲原鉄道 冬の七谷駅俯瞰1 198年月 16bitAdobeRGB原版 take2b
  
    1985年





中央の手を借りることなく、地元有志が資金を拠出しあって未開の山野を切り拓き、

1930年に開通した村松~加茂間の鉄路は結局55年間の生涯だった事になる。

幾多のエネルギーが注がれた公共財が人の一生より短い期間で失われる現実。

地域が衰退するから鉄道が失われるのか、鉄道が失われたから地域が衰退するのか。

例え民営であろうとも公共輸送としての性格を持つ鉄道は、相応の理由なしに無くせないものである事は事実だから、

答えは前者と考えるのが妥当だろう。

しかし村松加茂線は最後まで1日12往復、1時間ヘッドの運転間隔を維持し、朝夕は座りきれない程の混雑だった。

それが地域でいかに信頼を得ていたかは、何より昔日の写真が如実に語るではないか。

代わりに大金を投じて整備され、冬季の除雪をはじめ維持コストも膨大と思われる国道290号線は、今通る車も疎らで、

廃止の見返りに同区間を並行して走っていたバス路線も既に消滅した。

鉄道のみが抜け落ちたムラの風景は、この土地が覆い隠せない停滞、そして衰退にある事を感じさせる。

地域の振興、活性化とは誰のためにあるのか。



それはともかく。

風雪に耐え、そこに生きる人々の日々の業を支え続けた鉄道は、いつしか目には見えぬ魂をこの地に遺した気がする。

繰り返される日々の暮らしの泣き笑いや、地道な労働が折り重なった場所に宿る、情念のようなもの。

そんな魂のさざ波は、時を超えて此処に立つ人の心を微かに揺らしはしないか。

たとえその痕跡があめつちに埋もれ果てても。



( 虚ろな夏  30年目の蒲原鉄道     おわり )











蒲原鉄道 冬の七谷駅夕暮れの乗客4 198年月 16bitAdobeRGB原版take1b

   1983 年



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   2015年








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[ 2016/07/03 19:20 ] 昔の旅 蒲原鉄道 | TB(0) | CM(10)