 大村線 千綿 2016年 夕陽に照らされたホームに駆けてゆく少年はヤラセである。 人懐っこい協力者に恵まれて。 ノーコンピッチャーがカウントを悪くした挙句、ストライクが欲しくて腕が縮こまったまま棒球を投げるも、 待ってましたとばかり痛打され「ボールを置きにいきましたねー」と解説されるのもよくある野球風景。 いささか唐突ながら「置きにいった写真」というのもあるよなあという話。 構図から何から全てが周到にセットされているか、次に起こる事を読み切って待ち構えた写真。 とっさに構えたスナップで都合よく駅名看板の前景まで入れないよなあとか。 まあそれなりにカタチにはなるけど、「置きにいった写真」は何処かあざとく、出会いの一瞬のドキドキワクワクが感じられない。 そんなプロセスを知ってるのは撮影者だけだよと言われるかもしれないが、いや写真には出ると思っている。 置きにいくな、あくまでリアルな現場の躍動に対してチャレンジングであれと、腕の縮みを反省はしているのです。 © 2011 風太郎のPな日々 All rights reserved 「ブログ村」に参加しました。ご訪問の際はポチしていただけると励みになります! ↓ にほんブログ村
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 大阪 安治川河口 映画「泥の河」は1981年の公開だから、多分風太郎はハタチ前に見ているはずだが、今でも生涯の名作5本の指に入る一本だ。 ・・・昭和30年の大阪。安治川の河口で暮らす信雄は、両親から近づいてはいけないといわれた舟に暮らすきょうだいと交流をもつ。 きょうだいの母親は船上で売春をして口に糊していた。 (Wikipediaより) という筋なのだが、「もはや戦後ではない」の掛け声の中、時代に置き去りにされ忘れられていく人々の哀しみが描かれている。 なによりモノクロームの画面に浮かぶ光と翳が切なく美しかった。 写真のシの字にやっとたどり着いたかという当時、撮るならモノクロームだぜぇと思わせたのだから、風太郎の写真遍歴上も意味深い一本だったことになる。 総製作費は当時の金とはいえ僅か4500万円、35mmフィルムは現物支給、完成後も上映を引き受ける映画館すら無い状態だったらしいが、 結果的にその年の各映画賞を総ナメ、米アカデミー賞の外国語映画賞にもノミネートされ、スピルバーグが無名の新人監督に会いに来たというのは、 見る側と売る側の評価にいかに隔たりがあるかという証左でもある。 同じ敗戦国イタリアの戦後を描いた「鉄道員」や「自転車泥棒」は名画の誉れ高いが、あの程度で泣くな。「泥の河」を見てから泣け。  「今んなって戦争で死んでた方が楽やったと思うとる人、ぎょうさんおるやろなあ。」という父親役の田村高廣のひとりごちも大阪弁だから味があった。 宮本輝原作の舞台は大阪湾に注ぐ何本もの川のひとつ「安治川」の河口で、この映画の信者としては是非一度行ってみたい「聖地」だったのだ。 実はこの安治川河口、制作当時でさえ昭和30年の息遣いは消え去っていたのだろう、ロケは名古屋の港湾部で行われたという。 従って映画の場面とはまるで別物であり、ちっとも「聖地巡礼」では無いのだが、原作はこの土地で生まれた訳だし、 映画のイマジネーションの欠片でも探してみたいじゃないの。 もちろんモノクロームをオマージュとして。       風太郎は隅田川の川べりで幼少期を過ごしたので、映画の場面と実体験が何処か重なるところがある。 町工場の旋盤屑から漂う機械油の匂いや、煌めく川面、朽ちた板壁、ざらつき侵食する赤錆。 この映画に惹かれるのは、そんな記憶の源流とも繋がっているからかもしれない。 振り返ればその頃でもまだ町の暗がりに棲んでいたような、「戦後」はあまりに遠くなった。 書いていたらまた観たくなったな。 暗い、ひたすら暗いと括って遠ざけるのも勝手だし、本当に救いが無い話なのだけれど、 登場人物のひとりひとりが愛おしく、じわりと胸が熱くなる映画。 © 2011 風太郎のPな日々 All rights reserved 「ブログ村」に参加しました。ご訪問の際はポチしていただけると励みになります! ↓ にほんブログ村
 尻無川 甚兵衛渡船 水都大阪には公営の「渡し舟」が8ヶ所も残っているという。 特筆されるべきは渡し賃がタダという事だろう。 だからという訳でも無かろうが利用者は非常に多い。 ここ尻無川の「甚兵衛渡船」は昼間でも15分ヘッド、朝夕ともなれば10分ヘッドの忙しさだ。 川幅94mとの事だが、約1分程の船旅。 夕方の渡し場には10人以上が列を作る。  そもそもそんなに需要があるのなら何故橋を架けないのかという疑問も湧くが、川を通行する船舶を考慮すると橋は高い位置に架けざるを得ず、 いちいち高いとこまで上り下りしたくないわ、の希望が多いからと聞く。 どうも釈然としない理由だし、不可解な事情も絡んでいるような気がする。 でもコンクリートと鉄の橋は一時土建屋が潤って終わりだが、渡し舟なら10人以上はいるはずの船頭が雇用される。 行政の効率化も結構だが、そろそろこの国も広く仕事を分け合う事を考えた方がいいのかも知れぬ。   実はオリンパスの人に渡船が面白いよと教えてもらったのだ。 この日は写真展撤収の日。 14時前にはちゃっちゃと終わったので大阪最後の夕べを楽しむ時間はたっぷりある。 秋の透明な陽が傾いて、やがて残照に包まれる。 だんだん本気撮りのスイッチが入っちゃいましたよ。  自転車利用客が多いんだな。 皆自転車を押して乗り込む。 満員になったら次を待ってぇな、だ。 川辺の渡し場に繰り返す日々。 いいね、本物の公共交通機関って。  そういえば今日は十五夜だ。 マンションの狭間から真ん丸なお月様。 月見船はとっぷり暗くなった川面を滑ってゆく。  最近こういうニュースにあまり驚かなくなったが。 「オリンパスプラザ大阪」はギャラリー含め閉鎖か。 ついこの間のご縁だっただけに、切ないねえ、寂しいねえ。 「東京」だけは存続する事に救いを求めるばかり。 一方で10月上旬のミラーレス一眼売上はキャノン・ソニーを抑えて、PEN E-PL9とOM-D E-M10 Mark IIIがワンツーフィニッシュらしい。 機種から推察するにスマホ写真から卒業したいお姉さんが手に取っているのではないか。 ニッチ市場化を恐れる事なし。プランド価値はあるんだよ。 スマホじゃ撮れない写真があることを広く世間に教えてやろうよ。 頑張れオリンパス!   オリンパスプラザ大阪 12/25 閉鎖 © 2011 風太郎のPな日々 All rights reserved 「ブログ村」に参加しました。ご訪問の際はポチしていただけると励みになります! ↓ にほんブログ村
  「くいだおれ太郎」と並んで大阪キッチュ文化の象徴とも言えた、「づぽらやのフグ」死す。 インバウンド商売に味をしめ過ぎた自業自得とも言われるが、コロナの犠牲者である事も確かだろう。  在りし日のフグ。 長さ5mあったという巨大フグは60年以上ぶら下がっていたと言うからもはや景色の一部というか、 通天閣脇の夜空の空きを埋める、構図上も絶妙の位置にあった。 道路法および大阪市道路占用許可基準違反。 大阪市もアリバイ作りの「指導」はしていたらしいが、当の市長が「黙認よぉ」なのだから、歴史を作ったもの勝ちである。  フグは新世界だけかと思っていたら、道頓堀は戎橋界隈にもいたんだね。 ここのフグも運命を共にした。 負けじと競った看板アートの数々。 ぬっと差し出されるトロはむしろホラーなのが災いしたか、長期閉店を余儀なくされているようだ。  アドバダイジング・アートは看板ばかりじゃありません。 大阪のホームベンチは何故線路と平行なのかの解説。 「線路への転落イメージ」に東西の違いがあるとも思えないが。   自分とこの女性職員をアマビエにしちゃうセンスは関東にはありません。 でも見ているうちにだんだん可愛くなってきたな。 このキャラクターをコロナ除けのお守りにしたらごっつ売れると思うで。 © 2011 風太郎のPな日々 All rights reserved 「ブログ村」に参加しました。ご訪問の際はポチしていただけると励みになります! ↓ にほんブログ村
 阪和線 美章園高架下 阪和線は美章園の高架下が怪しいとは「大阪DEEPSPOT」のサイトで知ったのだが、これはまた期待通りの怪しさだった。 権利関係など闇に埋もれたような「高架下利用」は東京でも珍しくは無いし、 東急の渋谷~代官山間のような都心一等地でさえ、まるで異次元空間の様に最近まで存在していた。 ましてや大阪に無い事は無かろうと思っていたのだが。 天王寺周辺は大阪最大の闇市があったとも聞くし、その歴史の澱がここに沈殿するか。 鉄道会社の人間にしても誰もそこに手を付けたくないまま、ただ朽ち果てた末の歴史の清算を待つばかりだろう。  鉄とコンクリートの退廃アート。   鉄骨も生活に飲み込まれたのは何時の事だったろう。  維新VS共産党 サンレモの決闘。   沈黙の町をシュルシュル駆け抜ける特急列車。 © 2011 風太郎のPな日々 All rights reserved 「ブログ村」に参加しました。ご訪問の際はポチしていただけると励みになります! ↓ にほんブログ村
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