宗谷本線 音威子府 1988年
音威子府の駅蕎麦「常盤軒」が閉店したそうだ。 長らく店を守っていた店主が亡くなったとの事。
特急停車駅で駅員は昼間居るものの、宗谷本線自体の地盤沈下もあって寂しい駅になっていただけに、良くここまで営業を続けたとも言えよう。
上の写真は旧駅舎時代の音威子府で、画面左側の長い建物がホーム上にあった時代の「常盤軒」だ。 小さく看板が見える。
なぜホーム上かというと、この駅が道北鉄道の要衝であり、天北線との乗換の他に、SL時代は給水・給炭などで長時間停車があったからだ。
当時は乗客も一杯いたはずで店構えの大きさが収容人数を想像させるが、それでも足りず客車の窓辺まで丼を運んだという。
冗長な最果ての旅の途中、食事もままならなかったはず。 駅蕎麦の味は格別でもあったろうが、風太郎はこの頃食べた記憶が無い。
しかしそれから20年以上経ってから嫌と言うほど食べる事になるとは夢にも思わなかった。

音威子府蕎麦 2012年
天北線の廃止と共に駅舎が建て替わり、真新しい店は駅舎内に置かれる事になる。
特徴は真っ黒な蕎麦だった事だ。 いわゆる十割蕎麦に近いのだろう、小麦粉の配合が少ない分極めて強い腰と香りがあり、
苦手な人もいたようだが風太郎はこのクセ蕎麦が結構気に入っていた。
音威子府村 2012年
何故この蕎麦にどっぷりになったかと言うと、愚息がどういう訳かこの村の村立高校に入っちまったからで、
寮生活の様子見がてら年に1~2回は彼の地に行っていたからだ。
特に初夏に訪ねれば一面の蕎麦の花が村内を埋め尽くし、それは幻想的な程だった。
もともと泥炭層の瘦せた土地で牧草位しか育たず、酪農が盛んだったがそれも衰退した後、肥沃な土壌で無くとも育つ蕎麦が主役になったのだ。

写真展 「おといねっぷの森から ~沈黙の冬 音威子府~」 音威子府村 高橋昭五朗 彫刻の館 2012年
かつては鉄道の村、役場の前に飾られた動輪はC55ではなく9600のそれなのが、道産子馬のように朴訥なこの村に相応しかった。
住民登録した高校の生徒が全村民の1割以上を占め、故に平均年齢が異様に若いという不思議な不思議な最北の寒村、
酒でも入ればクソ体力がある奴が一番偉いんじゃあと、やはり開拓の民の末裔と感じさせる荒っぽい気風もあったが、
遠来の客人を人々は暖かく迎え入れてくれた。
学校の教師というよりアート・プロデューサーのようだった高校の校長や村長以下村役場と意気投合、
冬の音威子府をテーマに写真展を東京と音威子府の両方で開けたのは懐かしい思い出だ。
展示後のパネルは村に寄贈したので村役場や道の駅に飾られていると聞いた。
愚息と共に人生のエピソードを刻むことになった音威子府の三年間を忘れる事は無いだろう。 黒蕎麦のざらついた舌触りと共に。

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ミャンマー人は案外宵っ張りで、涼しくなった夜の時間を楽しむ。
こちらも大量のビールに酔った勢いで駅のカップルのお邪魔を。
今、 戒厳令下のヤンゴンは夜間外出禁止。
ミャンマーの軍事クーデターに抗議します。
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宗谷本線 咲来 2010年
風太郎のムスコが、母校での教育実習のため音威子府へ。
3週間の滞在は、あー羨ましと思わない事も無いが、そういう呑気な立場でも無いのであろう。
ご当地は早や根雪になりそうな雪が降っているとの事。
3週間が終わる頃には、背丈を超えるような豪雪に再び出会っているに違いない。
写真は、ムスコがまだ在学中の頃に撮影。この頃はPENTAX645で撮っていた。
あれからもう5年が経とうとしているかと、感慨新た。
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宗谷本線 音威子府 急行利尻 1984年
jamさんによる、石北貨物からのDD51引退を綴る切々とした記事に刺激されて。
風太郎は特別意識してこの機関車を追いかけたという事も無かったと思うが、
電化済みの大幹線は撮影対象外となれば、結局撮った機関車はDD51かDE10しか無い訳で。
気動車とは明らかに違うアイドリングや、息遣いのようにも見えるスチームの流れなど、
心ときめいたのはやっぱり憎からぬ相手だったのだろうと思う。
深夜の音威子府。
放射冷却でシバレあがった中を、下り利尻が到着。
闇夜を照らすヤード灯にスチームが浮き上がり、タブレット交換のカンテラが揺れる。
これ1本のためにほぼ完全徹夜、虎の子のトライXを1600増感で丸々1本ブチ込んだのも、
やっぱり恋は盲目という奴か。
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宗谷本線 咲来 2010年
何に見えますか。
風太郎は白いダースベイダーに見えます。
ご苦労様。

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宗谷本線 天塩川温泉 2012年
久々の「ねっぷ」ネタ。
ウチの息子が「村立おといねっぷ美術工芸高校」を受験した時は、募集人員と志願者がほぼ同数で、
答案用紙に名前が書ければ入れたに近いが、その翌年から劇的に志願者が増えて3人に2人は不合格
の事態となった。親子共々「1年前で良かった。」とムネを撫で下ろしたのは言うまでもない。
過疎の村立高校に志願者が殺到する事は良い事に違いないのだが、北海道の過疎地域においては学校
選択の余地に乏しく、「不合格」は「進学不能」に直結するため、不合格者が出る事自体が由々しき
問題という側面もあり、いろいろな面で北海道教育界に与えたインパクトは大きかったようだ。
主因のひとつは道外出身者が一気に増えた事で、北海道の公立高校に北海道の子が入れないとしたら
複雑だけれど、ピーク時には3割近く道外で占めていたのでは、と思う。沖縄本島や奄美大島の出身も
いたらしく、彼らは生まれてこのかた本当に一片の雪も見た事が無かったようで、-30℃の気温や
大豪雪を体感したカルチャーショックはいかばかりかと思うところ。
制服を巡るギャップもあって、特に女子の冬服はスカートの他に男子と同じようなスラックスも用意
されていて、どちらでも良い事になっている。(当然ながら厳寒対応。北海道スタンダード?)
しかしちょっと想像すれば分かる通り、「スラックス」はもはや絶望的に「KAWAIKUNAI」から、
学校側の「音威子府は物凄く寒いですからあ」という忠告も聞かず、道外の子は一度は拒否するらしい。
しかし冬を迎えて「事情」が分かれば、どんどん落城するとも聞いたが。
人口800人の小さな過疎の村に全国から集った多感な世代は、この北の風土に何を見て感じたか。
卒業してもこの村に残りたい、という道外出身者も多いと聞くのは、意外なような嬉しいような。
宗谷本線。
名寄出身の子がほとんど乗った経験が無く、帰省の折も普通列車に乗るのを嫌がるそうな。
「あんまり人が乗っていなくて怖いから」との事。うーん。

音威子府村 筬島 2010年
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