
日中線記念館 (旧日中線熱塩駅跡) 2015年9月
旧日中線の終着、熱塩駅は「日中線記念館」として保存されている。
若い女子なら「可愛い!」との評があるかもしれないし、最近のチープな観光駅舎にありそうな感じでもあるが、
約80年前、開通当時からここに建つ駅舎である。
こんな田舎にいわゆる国鉄標準駅舎では無く、よくこれほど瀟洒なデザインの駅舎を建てたものと素直に驚くべきだろう。


保存にあたり建築の先生が詳細に調査したところ、この建物は旧来の尺貫法では無く、
メートルを基準単位とする、いわゆるメーターモジュールで設計されている事が判明したらしい。
本格的な洋館建築であり、昭和初期のそれ、特に駅舎としては極めて貴重なものとの事。
設計はともかく実際に槌を振るったのは地元の大工だったろうし、さぞや戸惑った事だろう。
しかし負けずに戸惑うのは、かつてここに本当に列車が通っていた当時の廃墟ぶりを知る者である。
日中線 熱塩 1984年

1979年

1981年

1984年
1日3往復はやる気の無さに溢れた設定で、打ち捨てられたような駅舎は廃墟そのものだった。
無人駅に似合わぬ瀟洒な面影が残る大規模な建物だけに、むしろ余計に得体の知れない「お化け屋敷」感があった。
出札口はベニヤ板で塞がれ、トイレなど物の怪が潜んでいそうで絶対入る気がしなかった。
でもどこか惹かれる駅だった。1979年以来、7~8回の訪問。よくまあ繰り返し行ったもの。
線路で撮っているなどと不粋を言うなかれ。
朝の列車が行ったら夕方まで列車が来ない構内は、レールに腰を下ろした地元の子供達の遊び場だった。
廃墟のようでも現代のローカル線より余程利用客の影は濃かったように思う。
暗くなると温かみのある白熱電球がホームに灯り、それは今を生きている大切な故郷の駅である事を主張するように見えた。
雪に塗れてそれを追った身からすれば、こうして眺めるレールの無い風景は、どこか不思議な夢の中のようにも思えるけれど。
下の写真は待合室だが、当時を知る人は目を疑うのでは。
やはり板で塞がれ、内部を見る事さえままならなかった場所である。
見よこの端正な造りを。高い天井と共に、ティータイムでも始めたくなるような洋館の応接間さえ連想させる。
雪国にも関わらずフルオープンな玄関はちょっと奇異に感じていたのだが、こんな奥の間があったのだ。


ホーム上まで伸びた大屋根を支える柱から伸びた「片づえ」は優雅なカーブを描く。
この駅が出来た昭和13年といえば、この国が既に泥沼の戦争の時代に突入していた頃。
そんな世相にあって、田舎の片隅に意匠を凝らした駅舎を構想した建築家はその名さえ伝わっていないが、
数十年後に誰もが驚くなら、それは時空を超えたロマンチストの勝利とされるべきだろう。
開業当時、この駅には駅長以下8人もの駅員が居たという。
温泉客やら最寄りの古刹の参拝客やら、出札口からは往時のざわめきが聞えるようだ。

今宵は熱塩温泉に泊まる。
「ごらんなさい。今朝はそこの山まで雪が来ましたよ。」
で始まるのは、廣田尚敬氏が「山渓カラーガイド 日本の鉄道」でしたためた「湯が塩辛い」熱塩温泉の名文。
やっぱり日中線といえば熱塩温泉だ。

宿は「叶屋旅館」。ここでなきゃいかんのだ。
どうしても拘ったのは、風太郎17歳の夏、初めての一人旅で泊まったのがここだから。
高校生の分際で温泉旅館とは生意気なものだが、本当は寝袋持参で熱塩駅で駅寝するつもりが、
闇に包まれるにつれあまりの不気味さに恐れをなし、藁をも掴むように逃げ込んだというのが真相。
出てきた女将に「なるべく安く。」と正直に頼んだら、「5000円。」とのお値段を今でも覚えている。
2食付だから当時としても相当な激安価格で、余程哀れに見えたに違いない。
最初で最後というか、温泉旅館に泊まるような贅沢はその後ついぞ無かったが、
ちょっと舐めてみた湯船のお湯は確かに塩辛く、人生初めてといえる旅の実感が湧き上がったもの。
何はともあれ、風太郎の昔の旅はここから始まったのだ。
代替わりしたのか若い女将に昔の話をしてこの旅館も変わったのかと聞いたら、
増築はしましたが今日お泊りの部屋は昔からありますし、お風呂も変わりませんよ、との事。
太古の海水が閉じ込められたという湯は、変わらぬ塩辛さ。
36年前の自分はここで何を考え何をしたかったのか、物想いに耽るうち、熱い湯は体の芯まで沁み通ってゆく。
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