
蒲原鉄道 七谷駅跡 2015年
往時の面影を最も濃く残すのは、この七谷駅跡だろう。
駅舎は地元の集会所として今も活用され、コンクリートのホームもはっきり形を残している。その奥の二棟並んだ農業倉庫もそのままだ。
ホームの周囲の草叢がきれいに刈られているのは、これを記憶を継ぐものとしたいという、誰かの意思だろうか。
在りし頃。
駅の周辺こそ人家は疎らだが、列車の時間が近づけばどこからか集まる人々で小さな駅舎は結構一杯になるのだった。
それは此処が上下交換駅で、二列車分の乗降客を相手にしていた事とも無関係ではないだろう。
運転上の要衝でもあるから独りの駅長が常駐し、朝に夕べに列車を迎え、送り出していた。

蒲原鉄道 七谷 1981年
1985年
中央の手を借りることなく、地元有志が資金を拠出しあって未開の山野を切り拓き、
1930年に開通した村松~加茂間の鉄路は結局55年間の生涯だった事になる。
幾多のエネルギーが注がれた公共財が人の一生より短い期間で失われる現実。
地域が衰退するから鉄道が失われるのか、鉄道が失われたから地域が衰退するのか。
例え民営であろうとも公共輸送としての性格を持つ鉄道は、相応の理由なしに無くせないものである事は事実だから、
答えは前者と考えるのが妥当だろう。
しかし村松加茂線は最後まで1日12往復、1時間ヘッドの運転間隔を維持し、朝夕は座りきれない程の混雑だった。
それが地域でいかに信頼を得ていたかは、何より昔日の写真が如実に語るではないか。
代わりに大金を投じて整備され、冬季の除雪をはじめ維持コストも膨大と思われる国道290号線は、今通る車も疎らで、
廃止の見返りに同区間を並行して走っていたバス路線も既に消滅した。
鉄道のみが抜け落ちたムラの風景は、この土地が覆い隠せない停滞、そして衰退にある事を感じさせる。
地域の振興、活性化とは誰のためにあるのか。
それはともかく。
風雪に耐え、そこに生きる人々の日々の業を支え続けた鉄道は、いつしか目には見えぬ魂をこの地に遺した気がする。
繰り返される日々の暮らしの泣き笑いや、地道な労働が折り重なった場所に宿る、情念のようなもの。
そんな魂のさざ波は、時を超えて此処に立つ人の心を微かに揺らしはしないか。
たとえその痕跡があめつちに埋もれ果てても。
( 虚ろな夏 30年目の蒲原鉄道 おわり )

1983 年

2015年
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