
チャン・ウーという牧歌的なジャンクションに到着。此処でパコックという町から来る線路と合流する。
時刻表によればこの駅の到着時間は10時18分なのだが、何と9時過ぎには到着。
途中駅をとんでもない早発を繰り返して通過してきたという事だ。 一日一往復なのにである。
まあ途中から乗る人はあまりいなかったような気もするが、なるべく早く着いた方が皆幸せだろ? という暗黙の了解があるとしか思えない。
時刻表より一時間以上も早発された挙句、またあした、悪しからずでは日本人なら発狂するだろうが、
ミャンマー人はそんなものと見込んで、とんでもない時間から寅さんみたいに駅で寝ているのだろうか。
まあ空振りでも明日もまた同じような日だし、と。
パコック発のミキストが夏草を分けてモンユワへ先行する。
南国の深い緑に囲まれた小駅にゆらゆらと時は流れ、ヨンマルはしばし憩う。



ミャンマー国鉄は1000mmゲージなのだが、67mm分の改軌をどうやったのか。
何でも一旦車軸と車輪を切断して車軸を67mm分削り、そのまま車輪に溶接した、という話を知ったのが日本に帰ってからで良かった。
本当なら恐ろしい。 模型だって車軸と車輪をイモ付けしたりしないぞ。
低速走行のミャンマー鉄道だから許されるとは言っても、あの振動だからねえ。

おい、そろそろ出すぜ、早く乗りなと車掌。
発車時刻は10時20分のはずが9時40分には発車する。
終点モンユワはもうすぐだ。

高山本線 焼石 2014年
高山本線の一枚。 もう4年前になる。
早朝に風は凪ぎ、深い森は水面に鎮まっていた。
通過列車をよもやと拡大してみれば。
車番は「5802」。 5000kmを隔てた再会だった事になる。
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さらば永遠のヒーロー
今シーズン (もと言うべきか) 、悲しい試合が多すぎたドラゴンズ生活、書く事さえなかったのだが。
もはや止めようが無い流れと分かってはいても遂に来るものが来たかと。
岩瀬・荒木・浅尾の同時引退である。
まずは荒木から。
2000本安打打ったのだから球史に残る打者であった事も確かなのだが、やはりこの人の記憶は守備だろう。
ショートの井端と組んだ 「アライバ二遊間」 は、まさにカネを取れる守備だったし、当時のドラゴンズの、大地に根を張ったような強さの象徴だった。
まるでサーカスのようなバックトス (抜けそうなゴロにギリギリ追いつき、そのまま送球しても間に合わないからショートの井端にトス、
受け取った井端が代わりに送球して刺すという、セカンドゴロだけど記録はショートゴロという稀代のプレー) には開いた口が塞がらなかったものだ。
上手い二塁手、遊撃手は他にもいるし今後も出るだろうが、これほど息の合った二遊間は不世出という気がする。
実際には数回しか成功していないはずの 「バックトス」、実は風太郎は生で目撃している。
2007年10月のCS (クライマックスシリーズ) 第2戦、巨人相手の東京ドームだ。
巨人の打者は木佐貫、センターに抜けようかというゴロを荒木が好捕、そのまま井端にトスして、というプレーは今も忘れない。
それは下の映像の2:13辺りに出て来る。 他の映像も含めこれはセーフではと思えるものが多いのもご愛敬だが、
あまりの軽業に審判も思わず手が上がってしまうという事か。
点が入りづらいナゴヤドームを本拠とするなかで、守備こそ攻撃力という徹底した落合戦略を見事に体現した選手だった。
浅尾。
中継ぎ投手がMVPという、前代未聞の評価に有無を言わせなかった、2011年の鬼神の奮闘はまさに伝説であろう。
79試合登板、防御率0.41。 無機質な数字だが想像してみて欲しい。1試合1イニング投げるとして22試合目にやっと1点取られるという事だ。
プロ選手にしては細身な体から繰り出す最高157kmの剛速球と、50km位の球速差がある多彩な鬼変化球は、
そのアナウンスの瞬間に 「もうダメぽ。」 という相手チームの落胆が見えるようで、味方で良かったと心底思ったものだ。
その投球スタイルは体に無理があり過ぎ、いつか故障するという危惧は当初からあったし、
その守護神ぶりに頼り過ぎたチーム事情は、結果的に短い全盛期という運命を与えてしまった。
その心中は本人にしか分からないが、名古屋生まれの名古屋育ち、憧れのチームの命運を一身に背負った数年間に悔いは無いと信じたい。
これは不思議な事だが、何故かピシャリと抑えた浅尾のシーンが思い出せない。むしろ痛恨の一打を浴びたシーンばかりが蘇る。
「絶対に打たれない投手」 の記憶というのは、存外そんなものかもしれないのだ。
という事で映像は 「打たれた浅尾」 だ。 2010年の日本シリーズ第6戦、この一打で日本一を逃したという場面。
前日の試合は延長15回の末、引き分け再試合という凄まじいもの。当然浅尾も2回投げていたのだが、
翌日の試合も延長12回、浅尾の投球は遂に4イニング目、球数60球を超えて誰もが 「浅尾が壊れる」 と固唾を飲んだ末の悲劇だった。
もう彼しかいないという場面でなお150kmを連発、誰も責められなかった敗戦投手の姿こそ、この悲運の大投手に相応しくも思えるのだ。
そして岩瀬。 彼に対する賛辞は世に溢れているからそれをなぞるのも野暮というもの、多くは語らぬが。
晩年、「さすがの岩瀬も衰えは隠せませんが」 が枕詞となったが、ちゃんと見ている中日ファンは知っている。
本当に力でねじ伏せる事が出来たのは最初の2~3年だけ。 20代の頃から彼は既に衰え始めていたのである。
彼の19年間は坂を下るように衰えてゆく自身の肉体との闘いだったように思うのだ。
単純な力ばかりが全てでは無く、「心・技・体」の極めて高い次元での融合が、彼を前人未到の高みに立たせたと思う。
何事もなく1イニングを終えるのが当たり前、ヒーローインタビューに呼ばれることも無い。
クローザーとは過酷な割に目立たない損な役回りとも思えるし、チームに407勝をもたらした彼のセーブのひとつひとつを思い出すのは難しい。
しかしたかだかそのひとつに過ぎないながら (レギュラーシーズンでは無いから「407」にも含まれないが)、この一戦に彼の魂は凝縮されていると思う。
2007年、日本ハムとの日本シリーズ、53年振りの日本一を決めた最後のイニングである。
これはただの1イニングでは無い。前の8回まで山井がパーフェクト、完全試合を目前にしていたのだ。
山井の交代を告げる落合監督に騒然となったのは球場内に限らず、試合が決着してからでさえ問題がくすぶり続けたシーンだった。
しかしここで登板した岩瀬について多くは語られない。 想像して欲しい、完全試合を目前にして降板する投手の後を受ける投手の気持ちを。
点差はわずか1点、常人なら膝も震えるマウンドとなろう。 「あの時だけはイヤだった」 という後の本人のコメントも胸に迫る。
それは監督とて同じだ。 完全試合の投手を続投させて仮に負けても誰が監督を責めようか。逆に投手を代えて負けたなら・・・。
騒動の陰でひっそり目立たないが、岩瀬の落合の、魂を乗せた1イニングだったと思う。
いささか長いが、風太郎は今も居住まいを正してしまう 「岩瀬の13球」 を、心して見よ。
しかし2007年か。
無敵ドラゴンズは遠い所へ行ってしまったな、というのが残念過ぎる現実なのだけれど、3人共コーチとしてチームに残るとも聞く。
岩瀬は浅尾は、びびって四球連発、置きにいって痛打を食らう情けないリリーフ陣に技術はもとより強いハートを授けて欲しい。
荒木は再び守り勝つ野球を体現する鉄壁の守備を目指し、まだまだ甘い内野陣を鍛え上げてくれ。
そして彼らの顔がベンチの奥に覗くだけでも、あの頃の興奮が蘇る気がするのだ。
お疲れ様とは言わぬ。 頼んだぞ。
![ryokou201408_080take1b[1]](https://blog-imgs-122.fc2.com/f/u/t/futaro1980/2018092920145077e.jpg)
下呂温泉で見たこの写真も、とうとう最後の一人が居なくなっちまったな。
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