鉄道の村 音威子府

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   宗谷本線  音威子府  1988年


「村立音威子府小学校校歌」

汽笛の音は知恵を呼ぶ 文化の香り運び来て

強く正しく朗らかに 素直な子らと伸びゆかん

我らの励む音威校


ちなみに「音威子府中学校校歌」はこう来る。

緑の谷間を縫ってくる 3つの鉄路の中心地・・・。


校歌といえば、地元の山河や風物を歌いこむのは普通だが、ここまで「鉄道」を意識した歌も珍しいだろう。

中学校の「3つの鉄路」とは、宗谷本線の上り側、下り側、天北線を指していると思われ、もう世界の中心は

音威子府と言わんばかりである。


音威子府は「鉄道の村」として生きてきた。

天北線が分岐する他、名寄以北のいよいよ人跡薄い地にあって、給水・給炭等SL時代は補給拠点となった。

貨物ヤードには道北の農林海産物を満載した貨車が溢れ、貨物列車の組成作業のため構内は深夜でも煌煌と

ライトが灯り、不夜城のようだったという。


また塩狩峠の急勾配と並び、宗谷本線の難所とされたのが音威子府の豪雪である。サロベツ原野を吹き渡った

雪雲が天北山地の山々にぶつかって、この地に大量の降雪をもたらし、積雪3mを越すのも珍しくなかったと

いう。この難所に対処するため保線関連の施設も大規模だったのだが、かつて除雪車両も未発達だった頃は多

くを人力に頼らざるを得ず、この北の要衝を守るため、正規の職員の他に「除雪人夫」が大量に地元から集め

られた。村では雪が降ってくると「金が降って来た」と大いに喜んだものらしい。

最盛期、村の全人口の3割は国鉄関係者だったという。


しかし、次第に衰退する鉄道輸送は天北線を失わせ、輸送拠点としての音威子府の地位は極度に低下した。

また国鉄時代のおよそ経済性を度外視した施策は、JRへの移行という歴史的な転機において様々な矛盾

を噴出させる結果となる。JRへの不採用を巡り勃発した「音威子府闘争」と呼ばれる峻烈な労働争議は、

牧歌的なこの村を永く揺らす事にもなった。


あれほど居た「国鉄職員」はいつしか村から消えた。


鉄道の村。その光と影の記憶は、今では地元の学校の校歌や、村役場前に誇らしく飾られた9600の動輪に

ひっそり封じ込められているようだ。


7月の写真展「沈黙の冬 音威子府」での展示作品は、ネイチャーフォトが主体になるけれど、

「鉄道の村」へのオマージュとして、宗谷本線の写真も数点入れるつもり。


既出の写真ですが。


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   「沈黙の冬 音威子府」より  「音威子府駅」


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    「沈黙の冬 音威子府」より  「サロベツ通過」



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[ 2012/07/04 23:37 ] 音威子府 | TB(0) | CM(4)

こんにちは

大学時代 実習先の病院で 音威子府出身の男の子を受け持ったことがあります
母親とともに治療のために音威子府から札幌に来て長く入院していました
国鉄民営化の直後の頃で 父親は元国鉄職員でした 
父親の仕事のこと 子どもの治療費のこと 
そのほかにも母親が抱えている事情のほとんどは たかが実習生には理解できるはずもなく  
ただただ耳を傾けうなづく以外にはなにもできませんでしたが
母親の視線の先に常に在り続けるもののは 音威子府村の生活だということは伝わってきました

その後治療良好で寛解し 親子は音威子府に戻って行きました
村に早く戻りたいと言ってたその子はもう30過ぎているはず

いろんなもの抱えてこんな冬の夜をすごしていたんですよね 村の人たちは
深い深い重いの染みる冬です



 
[ 2012/07/05 16:49 ] [ 編集 ]

Jamさま

こんばんは。貴重なお話を有難うございます。

私などは学生時代、ふらりと音威子府を訪れた時の、風来坊の延長線上にしかまだないと思います。

聞きかじったような話を並べているだけで、その土地に根を下ろしている人たちの喜びも苦しみも、
万分の一も理解出来ていないのではないでしょうか。

そういった人間が「音威子府を表現する」と構える事が、実はすごく怖かったりもします。

今回、村の人たちとも新たな繋がりが出来ると思うので、その想いの一端でも共有出来れば、と思っているのですが。

[ 2012/07/06 00:30 ] [ 編集 ]

こんばんは。かつては9600や貨車が埋め尽くすというほどではなかったにせよ、賑わいを見せていた音威子府の構内も、雪に埋め尽くされて機関支区の事務所の屋根だけが見えるというのは何と寂しい情景でしょうか。1988年といえば天北線がかろうじてまだあった頃でしょうが、人の大勢居た時代を垣間見た世代には、鎮魂歌のようにしか写真を見ることができません。跨線橋だけが立派なのは違和感がありすぎます。これもまさしく遺構と呼ぶべき存在でしょう。ホームにあったそば屋のおばさんの笑顔を思い出します。
[ 2012/07/12 23:03 ] [ 編集 ]

音威子府駅

北マトさま

こんばんは。

「垣間見た」ではあっても、かつての活況に接したとは羨ましいです。

天北線はこのすぐ後に無くなりましたが、1980年代には既に寂しい音威子府駅でした。

天北線が無くなって、駅舎が建て替わるまで、ホーム上のソバ屋は健在だったようですね。
[ 2012/07/12 23:13 ] [ 編集 ]

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